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山形浩生は浅田彰を高く評価していたようだ。
1997年の訳書で、平和の危険性と戦争の効用についてのアメリカの民間有識者からなる委員会の報告書とされるレナード・リュイン「アイアンマウンテン報告」の訳者あとがきでは、日本版の委員会に選出されるべきメンバーとして浅田彰の名前を挙げている。
また、サイゾーの連載では、浅田彰がラディカルTVと作った映像「事故の博物館」によって自分の進路が影響されたことを告白している。この、浅田彰とラディカルTVの組み合わせというのは、筑波万博で行われた坂本龍一のパフォーマンス、TV WARの映像も作っており「TV WAR」で見ることができる。
浅田彰の「20世紀文化の臨界」ではウィリアム・バロウズをめぐる鼎談に参加している。後に出版された山形浩生の「たかがバロウズ本。」でも、この鼎談で語られた浅田彰の意見とさほど異ならないことが書かれたりした。ちなみに、トマス・ピンチョンをめぐる鼎談には、「オルタカルチャー―日本版」によるテクスチュアル・ハラスメントで裁判になった小谷真理の夫である巽孝之も参加している。

ところが、CUTにソーカル事件でおなじみの「『知』の欺瞞」の書評「ポストモダンに病んで/夢は枯れ野をかけめぐる」を書いたあたりから攻撃に転じたようだ。「構造と力―記号論を超えて」などの浅田彰のクラインの壷の比喩がまちがっているとオフィシャル・ページの「『「知」の欺瞞』ローカル戦:浅田彰のクラインの壺をめぐって(というか、浅田式にはめぐらないのだ)」で主張した。

これが「山形道場」に収録されて浅田彰に献本された。それに対し浅田彰は携帯Webサイト「THE END」の「i-critique 『山形道場』の迷妄に喝!」に反論を書いた。
反論といっても、「山形道場」をトンデモ本として全否定するわけではなく、姿勢や論点についてはだいたい肯定していて、それについて山形浩生が感謝の意を述べるという気色の悪いやり取りもあるが、クラインの壷が誤りであるという点については、二度にわたって反論している。だが、山形浩生のその後の言動を見ていると、それでもまだ誤解が解けていないようだ。
誰もが知るとおり、クラインの壷は3次元空間の中では実現しえない。そこで、4次元を考えることになる。数学的には3次元にどんな次元を追加してもよいのだが、もっとも馴染み深いのは時間軸を加えることだろう。そもそも、ダイナミック=動的なもののメタファーとしてクラインの壷が用いられているのだから、時間軸がなければ話にならないわけだ。時間のないところに動きはない。
4次元時空でクラインの壷を実現するには、壷が交錯してしまう場所を時間差を利用して使うことになろう。このGIFアニメのようにチューブが裏返りながら他端を追いかけまわす軌跡がクラインの壷になっていると考えれば分かりやすい。ほとんど循環するしか能のないしろものだ。

だが、山形浩生が循環しないと言っているのはこういうことではない。クラインの壷のなかになにか物を入れても、それは循環しないということだ。もちろん、これは正しい。当然ながら、ダイナミックな皮の中にスタティックな物を放り込んだところでなにも起こらない。循環するのは壷自体であって、中に入れた物ではない。貨幣-商品は壷の中で循環するのではなく、貨幣-商品がクラインの壷として運動するということだ。山形浩生の誤解はこの一点に尽きるだろう。
こんな簡単な誤解の原因も探らずに、壷の製法を繰り返すことしかできないようでは浅田彰は教師として怠惰に過ぎるのではないかと批判することはたやすいのだが、「「オレは権威なんか無視してやるぜ」という自意識は「私は権威だ」という自意識と背中合わせ」であると、このクラインの壷モデルから教師らしくありがたい人生訓を導出してくるあたりに注目しておいたほうがいいだろう。
そういった自意識は、書かれたものを暑苦しくするだけらしい。ではどうすれば、もっとクールな書き方ができるだろうか。それについては、ビョルン・ロンボルグ「環境危機をあおってはいけない」をめぐる山形浩生とのやりとりで示唆されている。
「続・憂国呆談」Web版9月号で、浅田彰がこの本と訳者の山形浩生を批判したことに対し、『サイゾー』11月号の山形浩生のコラム「山形道場」で「地球温暖化をめぐる後悔」題した反論が書かれた。それに対する再反論が「続・憂国呆談」番外編Webスペシャル2003年11月号の「自主性なき暴走を続ける日本外交」の欄外に書かれた「◆山形浩生の批判に答えて◆」である。
クラインの壷論争に続いて、論壇プロレスの企画者としてきわめて優秀である山形浩生は、つねづね反動を批判してきた浅田彰の反応を引き出し、ちょっとした盛り上がりを見せることになった。たとえば、極東ブログなどでもその反響ぶりを読むことができる。
だが、そんなことよりも重要なのは、「◆山形浩生の批判に答えて◆」において「続・憂国呆談」が「呆談」であることを強調している点であろう。語り呆けながら実は「正論」よりも真っ当な意見を述べるという戦略であるらしい。「続・憂国呆談」番外編Webスペシャル2004年9・10月号の「日本を取り巻く無責任の体系」で評価した中島らもの芸風にも近い。暑苦しい自意識から開放された、ポストモダンでクールな書き方の実践がここにある。
ただし、浅田彰はいつも語り呆けているわけではなく、筑紫哲也との対談を収めた「どうなる世紀末のゆくえ」では、この経済と環境の問題について「第三世界まで含めて、地球環境とうまく適合する持続可能な成長路線に乗せる矛盾のないシナリオを書けというのは無理」と率直に語っている。
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1997年の訳書で、平和の危険性と戦争の効用についてのアメリカの民間有識者からなる委員会の報告書とされるレナード・リュイン「アイアンマウンテン報告」の訳者あとがきでは、日本版の委員会に選出されるべきメンバーとして浅田彰の名前を挙げている。
また、サイゾーの連載では、浅田彰がラディカルTVと作った映像「事故の博物館」によって自分の進路が影響されたことを告白している。この、浅田彰とラディカルTVの組み合わせというのは、筑波万博で行われた坂本龍一のパフォーマンス、TV WARの映像も作っており「TV WAR」で見ることができる。
浅田彰の「20世紀文化の臨界」ではウィリアム・バロウズをめぐる鼎談に参加している。後に出版された山形浩生の「たかがバロウズ本。」でも、この鼎談で語られた浅田彰の意見とさほど異ならないことが書かれたりした。ちなみに、トマス・ピンチョンをめぐる鼎談には、「オルタカルチャー―日本版」によるテクスチュアル・ハラスメントで裁判になった小谷真理の夫である巽孝之も参加している。
ところが、CUTにソーカル事件でおなじみの「『知』の欺瞞」の書評「ポストモダンに病んで/夢は枯れ野をかけめぐる」を書いたあたりから攻撃に転じたようだ。「構造と力―記号論を超えて」などの浅田彰のクラインの壷の比喩がまちがっているとオフィシャル・ページの「『「知」の欺瞞』ローカル戦:浅田彰のクラインの壺をめぐって(というか、浅田式にはめぐらないのだ)」で主張した。
これが「山形道場」に収録されて浅田彰に献本された。それに対し浅田彰は携帯Webサイト「THE END」の「i-critique 『山形道場』の迷妄に喝!」に反論を書いた。
反論といっても、「山形道場」をトンデモ本として全否定するわけではなく、姿勢や論点についてはだいたい肯定していて、それについて山形浩生が感謝の意を述べるという気色の悪いやり取りもあるが、クラインの壷が誤りであるという点については、二度にわたって反論している。だが、山形浩生のその後の言動を見ていると、それでもまだ誤解が解けていないようだ。
誰もが知るとおり、クラインの壷は3次元空間の中では実現しえない。そこで、4次元を考えることになる。数学的には3次元にどんな次元を追加してもよいのだが、もっとも馴染み深いのは時間軸を加えることだろう。そもそも、ダイナミック=動的なもののメタファーとしてクラインの壷が用いられているのだから、時間軸がなければ話にならないわけだ。時間のないところに動きはない。
4次元時空でクラインの壷を実現するには、壷が交錯してしまう場所を時間差を利用して使うことになろう。このGIFアニメのようにチューブが裏返りながら他端を追いかけまわす軌跡がクラインの壷になっていると考えれば分かりやすい。ほとんど循環するしか能のないしろものだ。

だが、山形浩生が循環しないと言っているのはこういうことではない。クラインの壷のなかになにか物を入れても、それは循環しないということだ。もちろん、これは正しい。当然ながら、ダイナミックな皮の中にスタティックな物を放り込んだところでなにも起こらない。循環するのは壷自体であって、中に入れた物ではない。貨幣-商品は壷の中で循環するのではなく、貨幣-商品がクラインの壷として運動するということだ。山形浩生の誤解はこの一点に尽きるだろう。
こんな簡単な誤解の原因も探らずに、壷の製法を繰り返すことしかできないようでは浅田彰は教師として怠惰に過ぎるのではないかと批判することはたやすいのだが、「「オレは権威なんか無視してやるぜ」という自意識は「私は権威だ」という自意識と背中合わせ」であると、このクラインの壷モデルから教師らしくありがたい人生訓を導出してくるあたりに注目しておいたほうがいいだろう。
そういった自意識は、書かれたものを暑苦しくするだけらしい。ではどうすれば、もっとクールな書き方ができるだろうか。それについては、ビョルン・ロンボルグ「環境危機をあおってはいけない」をめぐる山形浩生とのやりとりで示唆されている。
「続・憂国呆談」Web版9月号で、浅田彰がこの本と訳者の山形浩生を批判したことに対し、『サイゾー』11月号の山形浩生のコラム「山形道場」で「地球温暖化をめぐる後悔」題した反論が書かれた。それに対する再反論が「続・憂国呆談」番外編Webスペシャル2003年11月号の「自主性なき暴走を続ける日本外交」の欄外に書かれた「◆山形浩生の批判に答えて◆」である。
クラインの壷論争に続いて、論壇プロレスの企画者としてきわめて優秀である山形浩生は、つねづね反動を批判してきた浅田彰の反応を引き出し、ちょっとした盛り上がりを見せることになった。たとえば、極東ブログなどでもその反響ぶりを読むことができる。
だが、そんなことよりも重要なのは、「◆山形浩生の批判に答えて◆」において「続・憂国呆談」が「呆談」であることを強調している点であろう。語り呆けながら実は「正論」よりも真っ当な意見を述べるという戦略であるらしい。「続・憂国呆談」番外編Webスペシャル2004年9・10月号の「日本を取り巻く無責任の体系」で評価した中島らもの芸風にも近い。暑苦しい自意識から開放された、ポストモダンでクールな書き方の実践がここにある。
ただし、浅田彰はいつも語り呆けているわけではなく、筑紫哲也との対談を収めた「どうなる世紀末のゆくえ」では、この経済と環境の問題について「第三世界まで含めて、地球環境とうまく適合する持続可能な成長路線に乗せる矛盾のないシナリオを書けというのは無理」と率直に語っている。
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2009/03/01(日) 18:59:36 | | #[ 編集]
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2009/07/02(木) 18:35:12 | | #[ 編集]

